最初に謝っておきます。国語の先生の皆さん、もし読んでおられましたらごめんなさい。学校や時代によっても状況は違うかと思いますが、あくまで僕の学生時代の体験ということで。
僕、学生時代に一番苦手だったのが「国語」でした。特に現代文。他の科目と比べてぶっちぎりにテストの点数が悪かったし、いくら勉強しても点数が全く伸びなくて、最後の最後まで大嫌いでした。
それなのに、なぜか今は作文=文章を書くことに、こんなにものめり込んでいる。ブログを書いて、電子書籍の執筆に挑戦して、メディアで記事を書く機会をいただいて。どこをどうしてそうなったのだろう、と。
今でもふとした瞬間、捷運で移動中にぼーっとしている時とか、富有柿を6等分にカットしている時とかに、そんな疑問が浮かんで来るのです。(柿がおいしくなる季節ですね。)
国語のテストで良い点数なんて、取れたことがないのです。

漢字テストはまだ良いんです。点が一個足りませんよ、棒が一本多かったですね、と明らかに間違いが分かるから。その後、台湾にやって来て漢字100%の文化にもどっぷり浸っているわけですし、ちゃんと学べて良かったと思っています。(台湾の繁體字はさらに画数が増えるので、今だにガンガン間違えてますけど。)
自分で文章を書いて答えないといけないやつです、苦手なのは。
課題文の内容に沿った作文とか、筆者や登場人物の心境を問う文章問題とか。頑張って書いたのに丸がついていた記憶なんてほぼなくて、高確率で跳ねられてました。良くて三角がついていて、「(満点の)2割分ぐらいは点数をあげてもよろしかろう」が関の山です。
「下線部③の筆者の心境を答えよ。」などと問われても、全然見当がつかないのです。その人の心境なんて「他人が数行で言い表せるほど単純なものなの?」とか思っちゃうし。テスト後に正解を聞いても、やっぱりピンと来ない。「それ、本当?」って思ってしまう。課題文の筆者が先生自身なら話は別だけど、下線部③の心境の本当のところは「書いた本人にしか分からなくない!?」みたいな。もしも今、同じテストを受ける機会があったとしても、学生時代より良い点が取れる自信はやっぱりない。
もしかすると、点数どうこう以前に、そもそも問いかけることによって「他者の心境や立場を想像する力を養う」みたいな意図もあるのかも。でもそれなら、いつもコンスタントに国語の点数が良いクラスメイトたちは思いやりに溢れた模範生で、いつも点数が低い僕は(本当にそうなのかもしれんが)空気が読めなくて想像力に欠けるポンコツってこと?
いずれにせよ、国語のテストの点数が常に良い人たちは、一体どうやってそれを実現していたのか。今でもすごく興味津々なのです。
人それぞれの感想や解釈があるから、面白いのでは?

国語が大嫌いだったから、教科書以外でさらに自主的に本を読むなんて到底考えられなくて、高校時代まで読書もほぼしていなかった。本を読むことの楽しさに気づけたのは、それまでの国語のテストのようなものから解放された大学生になってからです。
読みながら、あるいは読み終えてから、自分なりの感想や解釈を自由に出す。それが正しいとか間違っているとか、誰からも判断される必要がない。正解・不正解の枠組みが完全に取っ払われた後になってようやく、教科書で読んだことのある物語や文章も面白く感じられるようになりました。
実際、(ドラマや映画や絵画でも同じかもですが)ある本の感想や解釈についてネットで調べてみると、読者それぞれに違ったものを作品から感じ取っている。着眼点や人生経験の違いから、いくらでも違う感想や解釈が出てくる。僕自身も文章を書いて発表するようになって、自分が意図していたこととは全く違う、予想もしていなかった方向から意見が飛んできて「なるほど。そういう風に受け止める人もいるのか。」と多々気づかされる。それで嬉しくなったり、逆にショックを受けたりすることもあるわけですが、要するに「絶対の答えなんてない」のは確か。この辺が、自分の出した解釈に「間違いです!」と言われ続けていた僕が、国語に苦手意識を持っていた理由と繋がっている気がします。
「下線部③の心境」系問題に点数をつけるなら、せめて「 【㊗️ボーナスステージ🎉】この問題の点数は、テストの点数にプラスアルファで上乗せだぞー🫶 挽回のチャンス❤️ 」みたいな加点方式になっていたら、国語に対する印象はもっと変わっていたのかも。楽しそう。先生側の実務面の難しさは棚上げした、ただの個人的な考えですけど。
とにかく、国語への苦手意識はまだ払拭されていないけれど、文字を読むこと、書くことの面白さは今すごく分かるようになっているよ、というお話でした。
じっちゃんの血が騒いでいる、のか?

過去を振り返ってみると、文章を書くことについては、昔から全くの無縁というわけでもなかった。むしろ僕にとっては、かなり身近な存在だったことに思い至ります。
母方のおじいちゃんの部屋のローテーブルには、原稿用紙と万年筆が常に置かれていて、よく物書きをしている姿を見ていました。書き上がった原稿は新聞社に寄稿して、時々掲載されたりもして。晩年には、自分の書いて来たものを「1冊の本にまとめたい」と良く言っていた。実際に、それらの原稿は1冊の小さな本になって、販売こそされていないものの、家族や近しい人に配られた。ページをめくってみると、まだ小学生高学年くらいと思しきおじいちゃんが田んぼの脇の畦道で牛を引いている白黒写真も盛り込まれていたりして。あまり聞いたことのなかった過去や頭の中を覗けたみたいで、新発見がいっぱいの本でした。
そう言えば、これって僕が今がやっていることとほぼ同じだと、最近になって気づいたわけです。文章を書くことに興味を持ったのは結局、①じっちゃんの血が騒ぐぜっ!的なことだったの?もしかしたら、そんなところにも因果があるのかしら、なんて思ったりもしました。
それでは、最後に問題です。
「上記の下線部①に対する筆者の心境を答えよ。」
正解(クリックすると開きます。)
露わな写真集やら官能的な小説やらを堂々と本棚に並べていたほどの、じっちゃんの飽くなき好奇心。性的指向の違いこそあれど、これもしっかり我が身に受け継がれたのかもしれないわね。



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